世界中のどこよりも平和で安全な部屋の奥で

こんばんは。卒制のせいで木くずだらけ、橋本です。

気付けば卒業まであと2か月きってました。むなしい。
というわけで、残り少ないし、ここは全力で映画の紹介したいと思います。


ギャスパー・ノエ「アレックス」
(Gaspar Noé 「IRREVERSIBLE」)




就活の面接で、
「とっておきの一本という映画を紹介してください」
と言われまして、ぱっと頭にうかんだこの映画を紹介しようとしたのですが、ぜんぜんうまくしゃべれなくて、凹んだので、リベンジの意味もこめまして…


わたしは、
銀座や表参道の街を歩く奥さまがたのような人には「悪趣味」と一蹴されてしまいそうな映画が大好きです。

ギャスパー・ノエという監督もある意味そんな映画を撮る人だと思います。
この「アレックス」という作品はカンヌで上映されたのですが、映画史上最長といわれるレイプシーンに途中退場者続出…、そんなことで有名になってしまった映画です。

「レイプシーンがある」、そんな情報だけ知っていたので、ようはわたしはそれを見るために「楽しみにして」映画を借りたわけですが、実際に見てみると、その描写は「過激」と一言で片づけてしまえない、目を覆いたくなるというよりはただ見つめることしかできないものでした。

この映画は、時間軸が逆になる編集がされていることでも有名です。映画は逆転したエンドロールからはじまります。カット割りが極端に少なく、カメラは浮遊して、シーンを追い続けすます。一番最初にショッキングな映像にがつんと頭を殴られて「覚醒」させられたあとに、過去へとさかのぼっていくのですが、映像はどんどんと幸せで愛のあふれるものへと変わっていきます。見る人はそのコントラストの残酷さに耐えられなくなっていきます。映画を見てるはずなのに、映画ではない、現実のなまなましさが頭のなかに知らぬ間にダイブして飛び込んでくる。
映画はエンターテイメントだと思って、わくわくして、どんな新しい経験が待っているんだろうと目を輝させているわたしたちに、「暴力を軽く見るなよ」と言わんばかりにつきつけ、たたきつけ、現実に目を向けさせる。その場に居合わせてしまった「目撃者」であり「傍観者」になったわたしたちに、「考えろ」「考えろ」「考えろ」と、ひたすら問い続ける。「それで、おまえはどうするんだ?」と。

固定カメラで長回しの、あまりにも人の心を抉るようなレイプシーンを撮ったことに対して、ノエが言っていたことは「実際のレイプはもっと長いだろう、と思った」ということでした。ただそれだけなんです。ただそれだけのことを、ただそれだけを「見せる」ということをいったいどれだけの人たちができるのだろう?この映画そのものはフィクションですが、あるショッキングな「出来事」を描写するという手法としては、ガスヴァンサントの「エレファント」とかと似たものがあるかもしれません。「出来事」を描写するというのはどのようなことなのでしょうか?

人は、どうしても汚いもの、見たくないもの、信じることができないものを視界から排除します。
誰かが見せてやらないといけない。
あるいは見せてやるように仕向けなければならない。どうせ殺されるなら、ステージの上まで必死ではいあがってそこで堂々と殺されてやろう、と思うわけです。

世の中には見たくなくても見ずにいられない瞬間ってありますよね。
それが見たくて、知りたくて、わたしは映画を見たいんだと思います。
見なきゃいけないんじゃなくて、見たいんです。
自分が死ぬまでにできる唯一で最大のことは「見つめる」ことだけなんじゃないかと思います。
ただ、見つめるということ。目をあけて。何もできなかった子供のときみたいに。





…。
さて、話は変わって、みなさんにとって、自分自身を縛り付けている見えない鎖から自分を解放してくれるものはなんでしょうか?

年明けから都築響一の「夜露死苦現代詩」という、死刑囚の書いた俳句やヒップホップの歌詞、アダルトサイトの宣伝文なんかを「現代詩」として読むという、そんな本を持ち歩いているのですが、その最初の文がとても好きなので載せたいと思います。

「でもね、すべての芸術はまず落ちこぼれに救いの手をさしのべる、貴重な命綱だったはずだ。頭のいい人たちのオモチャである前に。」

本当に必要な言葉を語ることができるか?
自分が語らなければいけないことは?
見つめなければいけないことは?
自分にとって本当に必要な言葉とはなんだろう?
どのようにしたら語ることができるのか?

頭のわるいわたしには、いつも自分に問うことしかできません。
そして、いつも、「どのようにしたら語ることができるのか?」という問いにこたえようと必死でした。就職を前にして、わたしの6年間におよぶ表現活動の時間は、ただそれだけのために必死だったように思います。
おそらくこれからもそれは変わらないでしょう。

世界中のどこよりも平和で安全な部屋の奥でなにが起こっているのか、あなたはだれよりも知っているはずです。だれよりも分かっているはずです。わたしはだれよりも知っているはず。わたしはだれよりも分かっているはず。何を?どんなふうに?



さいごに、関係ないですが、「殺すな」というデモをご存知ですか?
街中で行う政治的なデモというよりはパフォーマンス的に行われたもので、まあいろんな意見があるかと思いますが、とりあえずyoutubeで見れるので見てみてください。
岡本太郎のかいた、今にも人を殺しそうな気迫でつづられた「殺すな」という字。
そしてただひたすら爆音をならしながら「殺すな」と叫ぶ人。
何度も「殺すな」、その言葉だけくりかえします。
見えないと思ってるもの、見たくないもの、知らないものを殺すな。ないものにするな。常に恐怖を持て。恐怖をかかえこめ。
そんなことを言われている気がするのです。
さあ、この「殺すな」という言葉、みなさんにはどう響きますか?



というわけで、長くなったうえに少々強引なつなげかたになりますが、2月15日金曜日の上映会もなかったことにはしたくありません。おもしろくてもおもしろくなくても、それが現実なんだから、淘汰せず、現実を見つめに、とりあえず、まあ、来てください。13時からアサビ422教室です。自分のくだらなさにがっかりしても、くだらなさに気付けただけましだよね。殺すな。
見終わったらお茶でもしながらあれこれ言いあってみませんか。

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