MFF作品紹介~悲しみのためのテスト~

最近、あまりにも自分がすべてに対して雑すぎることと、中途半端なことと、ものを失くしすぎることと、あと、ごはんを食べるのが早すぎることに悲しくなっています、橋本です。



いよいよMFFまであと一週間をきりました。



今回わたしが出させていただくことになった作品は、「悲しみのためのテスト」という、約16分の作品です。




「世界で一番不幸な人」のイメージを想像してもらい、屋上で世界中の不幸な人を代弁してもらう。という作品です。

当然のことですが、「世界で一番不幸な人」という言葉にはまるで信用性がありません。
つまり、そんな信用性も根拠もない、「イメージ」を具体的に想像しつくりあげ、演技してもらっています。これはそもそも無理なことです。
そして、何度も演技してもらうなかで、演出は過剰になっていき、もはや演技なのか何なのか、わからなくなっていきます。

映像の「表現のためだったら、どこまでやらせていいのか?」「どこまでやっていいのか?」という、
倫理的な側面にもとても興味があったので、こんな構造にしました。


「祈る」ということとはどのようなことか?というのをずっと考えていました。
といっても、わたしは宗教的なことは何も知らなくて、何の信仰もないし、
「神様はいると思いますか?」ときかれたら、
「はい!いません!」とおおきな声で元気よく答えると思います。
けれど、同時に、「信仰心」というものがとても尊く感じて、そこに憧れを感じたりもします。

「祈る」とは、わたしにとって、日記を書くことと似ています。
誰かに見せるためのものではないし、それをやったからって、世界が変わってくれるようにはとうてい思えないけれど、すがるしかないようなもの。もうどうしようもなく、この世でたった唯一、「自由になれる手段」として存在してしまう切実なもの。そんな状況を想像すると、「祈る」ということはとても美しいなと思います。

しかし、そんなのを映像にしたら、どうでしょうか。本来的に人に見せるはずのないものを、「人に見せる」という図式のうえに置いたらどうなるのでしょうか?

そこに、たぶん、簡単に言ってしまうと、
テレビやマスメディアのおもしろい特性と、
ある社会に対してのフラストレーションのようなものがあらわれてくると思います。


ここからは完全に余談になりますが、
あるとき、電車のなかで、隣の人が吐き出したことがあります。
酔っぱらったのかなんなのか知りませんが、ともかくその人はビニール袋をもっていて、ビニールのなかに吐いていました。
夏だったと思います。
そのとき、わたしは「うわ~どうしよう」と思いました。
というか、吐く前からもう、その人はふらついていて、あきらかに様子がおかしかったので、正直、薬物中毒者かなと思っていました。手はだらっとたれていて、何度となくひざを触られそうになったのがすごくいやだったのですが、なんかそこで席をたつのもいやだったので、「うわ~」と思いながら「早く降りろ」と思って座っていたわけですが、
ふと目の前にいる人を見ると、扇子を意味ありげに開いて、吐いている人が視界に入らないように扇子でかくしていました。
「うわ~」どころかもう、「…」です。
まず扇子はあおぐためのもので、目隠しに使うものじゃありません。
ということももちろんありましたが、それよりも、汚いものをすずしげに覆い隠し、見えなくしているということをささいなことで目の当りにしたショックというのでしょうか。
本当に些細なことなんです。でも、だからこそ、鮮烈なショックがはしりました。

わたしたちは、普段、テレビで泣きながらインタビューを受ける人を見たり、不幸な人ががんばって幸せになる、みたいな、「がんばれ系」のドラマを見たり、ドキュメンタリーを見たり、大量の「不幸」な、「かわいそう」な、イメージを浴びています。
そんなのを見て、「かわいそう!」ともらい泣きをしたり、「がんばれ~」と思ったり、
あるいは政治や社会に対してコメントしたりしていたとしても、
町中で吐いている人や、急に大声を出したりする人や、駅のすみでうずくまるホームレスの人を見たら、できるだけ見ないようにして通り過ぎるだけです。

考えたり、視界に入れたり、そんなことすら放棄しています。
あたりまえです。自分のことでいっぱいいっぱいだから。

でも、そんなふうに、涼しげに、いとも簡単に覆い隠されて、なかったことにされてしまうんだ、ということが、「扇子で隠す」というポップでキャッチーなものとして現れて、こんなにもショックなのかと思いました。

電車のなかをずっと転がってる空き缶や、あけっぱなしの窓のように。
誰もとろうとしないゴミ。
そのうち誰かに片づけられて、なにごともなかったかのように忘れ去られていきます。
そんな、滞りなく流れる、社会に対して、
都合のよいやつにとっては都合がいいけれど、都合がわるいやつもいるんだよって
大声で叫びたくなるような欲求不満が常にあって、それが作品をつくる原動力になっている気がします。




実は、この映像のなかには目に見えるかたちで含まれていませんが、とても長い、「調査」という名の、遭難の軌跡がありました。

そう、先生に「きみは遭難しているよ」と言われ、
「遭難するのが好きなんです」と言うと、
「遭難してちゃだめ!ちゃんと出口を見つけなきゃだめ!」と、
怒られたことは今でも鮮明に覚えています。

何度も撮影をくりかえして、結局使わなかった映像がたくさんあります。
でも、その迷いも含めて、この作品だと思っています。

作品として成立しているかどうかはいまだにわからないし、中途半端に終わってしまっているかもしれないし、またもや惜しかったかもしれないし、
でも、「これに取り組まなかったらこの先はない」と思ってやってきていたので、
まだまだ成長できるということだと思います。
もう卒業になりますが、まだまだ映像が撮りたいです。

それでしあわせになれるなんて簡単に思うなよ。





というわけで、長くなりましたが、わたしの作品説明おわります。
MFF2013は2月15日(金)13時から、
阿佐ヶ谷美術専門学校422教室です。

映画館のようなスクリーンとサウンドもがんばるので、ぜひいらしてください。
部員一同、みなさまをこころよりお待ちしております。

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